ブックタイトルbookcopolo1908
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死ぬような苦しみを味わった戦争と引揚げ岡島冨美子(80歳)私は7歳の時、サイパン島の先にあるテニアン島で戦争に遭いました。テニアン島には日本人がたくさんいて、サトウキビ栽培をしていました。父が働く飛行場には、空襲であっと言う間に爆弾が落とされました。父も爆弾でケガをしましたが、自宅まで逃げてきて助かりました。B29が空いっぱいに飛んで、バラバラと爆弾が落とされました。家も、周りにあったパパイヤやマンゴーなどの果実の木も全部飛び散り、防空壕の屋根も飛ばされました。母が「絶対動くな。空から敵が見ているから、飛行機が見えなくなるまでピクリともするな」と言い、親子6人は助かりました。夜になるのを待って、近くの洞窟に逃げました。洞窟の中は暑く、たくさんの人でひしめきあって、大変なところでした。どのくらいそこにいたのでしょうか。洞窟も見つかってしまい爆弾が飛んでくるので、スコールの降る夜、暗くて何も見えないなか、みんなでジャングルをめざして逃げました。ジャングルの中にもたくさんの人がいて、食べ物はありません。日中は暑くて苦しく、その辺の青草を手でむしり取り、腹に巻いてしのぎました。夜になると海岸に這うようにして出て行き、海水をたらふく飲みました。雨の日は木の葉の水をなめ、食べ物がない苦しみを味わいました。持ち物を取り上げられ、チョコレートやカンパンなど、たくさんの食べ物をもらいました。案内された場所は、バラ線※の中のバラック小屋でした。夜になると女の人をさらっていく外国人がいたので、「夜は便所であっても絶対に外に行くな」と言われました。農業を希望する人はバラ線の外で働く場所を与えられ、畑仕事中は豊富に食べ物を与えられましたが、バラ線の中に持ち帰ることはできませんでした。そんななか、日本に帰れることになり、一人6貫※目2※の荷物1つだけ持って、船で浦賀3に送られ、宮城県の遠刈田温泉のあたりをあてがわれました。その日から何一つない山の中が住み場所となりました。持ち物は1人3枚ずつの毛布だけ。笹を刈って、木を組み合わせてなんとか住める所を作り、鉄兜を鍋にして、スズ竹を箸に、拾ってきた空き缶を茶碗にして、その辺の雑草を食べました。戦争に負けた日本。「死んだ方が良かった」と母を責めた日もありました。「この紐で2人で死んで」と言った時、母が私をちぎれるくらい抱きしめて泣いた日のことが忘れられず、今でも胸の内が苦しくなります。父と母と私と、1日の生活のために毎日山仕事で学校にも行けず、本当に死ぬような苦しみのなか、中学卒業後に一人で家出をしました。京都へ出てきて理容師の道を進み、今では理容室も持ち、老人ホームのボランティアをしながらコツコツ働いています。そんなある日、日本は戦争に負けました。「ジャングルの中にいる日本人、出てきなさい」とスピーカーから聞こえて、父は旗の代わりにフンドシを挙げました。アメリカ人に一人ひとり検査されて※有刺鉄線※2重さの単位。1貫目は3.75kg程度※3現在の神奈川県横須賀市の東部コーポロ2019年8月号07