ブックタイトルbookcopolo1908
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家族がバラバラになった戦争西村恭子(82歳)昭和20年3月まで、京都府庁前に両親、兄3人、姉、私、妹2人の9人で住んでいました。私は当時、小学3年生でした。長兄は15歳で徴兵され、舞鶴港で乗っていた軍艦が爆撃に遭い沈没。その時、兄は地下で食事係をしていて助かりました。甲板には死体がゴロゴロあったと聞いています。次兄は徴兵で特攻隊へ。天皇陛下のお盃をいただき、明日は出撃のところで終戦となり命は助かりました。兄2人が出兵の時は万歳三唱で送り出しましたが、その夜、父も母もずっと泣いていました。戦争は激しくなり、市役所前、府庁前は類焼を避けるため強制疎開を余儀なくされ、残された家族7人は母方の叔父のツテで、島根県浜田市周布へ疎開しました。汽車に15時間ゆられて着いたすふ先は、山、川、海が近く、自然に恵まれていました。京都では配給の雑炊でひもじい思いをしていましたが、母が着物、帯、掛け軸などを、お米、実、野菜と交換してくれました。昭和20年8月6日、広島に原爆投下。その時、私たちが周布川の堤防から見た空は真っ黒でした。そして敗戦、ラジオの玉音放送を聞いた三兄は泣いて裏山へ走りました。夏も終わる頃、長兄と次兄は大きなリュックを肩に帰ってきました。母はずっとずっと泣いていました。母は後に「京都へ帰りたい。でも京都には家もなく、帰る汽車賃さえもなく、途方に暮れていた」と言っていました。父と長兄、次兄はやっと見つかった漆?きの仕事のため、終戦から3年余りを経て京都へ。私は小学6年生の卒業式を終えて京都へ戻りました。恐ろしい、悲しい戦争。絶対にしてはいけません。幼き日の必死の思い出ペンネーム八郎兵衛(79歳)明治43年生まれの父は、第二次世界大戦に2度にわたって出征し、中国大陸で瀕死の重傷を負い、傷痍軍人となって辛うじて帰国。東京の陸軍病院に長らく入院していたが、何とか丹後へ戻ることができた。散弾の破片は太股の辺りに残ったままで、寒くなると痛むと言っていたのを覚えている。私が5歳のとき、米軍のグラマン戦闘機が突如来襲し、目の前の海上すれすれまで急降下した。あまりのことに一体何が起こったのか分からず大騒ぎになった。その日、村民こぞって近くの竹薮に逃げ込んで一晩を明かし、翌日はさらに遠くの森へ避難して、また一夜を明かした。だが、なぜか父だけは玄関先に立ち尽くし、敵機を睨みつけて避難しようとはしなかった。幸いにも死傷者は出ず、村民全員無事であったが、頭上に降りかかるバリバリというものすごい爆撃音は、今に至るまで耳の底に残っている。2、3歳の子の火が付いたように泣き叫んでいたその声とともに・・・。家々の白壁は、すべて黒く塗り潰された。小さな漁村に過ぎない伊根村がなぜ攻撃に晒されたのか?その当時、伊根湾には全長125mのちょうげい潜水母艦「長鯨」が避難入港しており、それを探08コーポロ2019年8月号