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概要

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平和への想いをつないでいくために私たちの戦争体験談戦後76年が経ちました。戦争・被爆体験者は徐々に少なくなり、薄れゆく戦争の記憶を後世に語り継ぐことが課題となっています。京都生協では戦争の記憶を次世代に伝え、平和への想いをつなぐ取り組みとして、コーポロ5月号で戦争・被爆体験談を募集しました。ご応募いただいた投稿の中から4人の体験談をご紹介します。今年もたくさんのご応募、ありがとうございました。戦争と小学生時代京田辺市小南悦子(87歳)当時、小学校は「国民学校」と呼ばれ、初等科が6年間と、高等科が2年間ありました。登校すると校門の真正面にある大きな蔵のような建物「奉安殿※」の前でみんな立ち止まり、最敬礼をしました。当時は何の建物か、何が入っているのか、考える術もありませんでした。教室に入ると、1日に何回も先生の「空襲警報発令」「敵機来襲」の大声で、私たちは一斉に机の下にもぐり込み、座布団で頭を隠し、息を殺して飛行機が遠ざかるのを待ちました。当時は「欲しがりません、勝つまでは」を合言葉に、何でも我慢させられました。先生は校長先生と年配の男性と、女性だけでなぎなたした。女子は薙刀、男子は木銃を使い軍事練習をさせられました。教科書は粗末な印刷で読みにくい、新聞紙を広げたようなものを各自で製本しました。アルミの弁当箱に麦ご飯と梅干し1個の日の丸弁当が、唯一の楽しみでした。食べ盛りの年齢で「お腹いっぱい食べたい!」と思ったのは私1人ではなかったと思います。私が6年生になった年、長崎と広島に原爆が投下され、多くの人命や建造物などが失われました。そして終戦となり、天皇陛下の玉音放送で訳も分からず泣きました。教育制度は六三三制と改められ、新制中学1期生となった私はようやく勉強・友達づくり・遊びの機会を得ました。※奉安殿…戦前の日本において学校などに設けられた、天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めていた建物父の苛酷な戦争体験京丹波町藤田和代(72歳)2016年9月に96歳で亡くなった父の戦争体験を、子どもの頃から何度も聞いて育ちました。その都度、記録しておけばよかったのですが、当時は「またか」という気持ちで聞いていたので、苛酷な体験に寄り添って聞き取ることができず、今頃になって後悔しています。その中で覚えていることをいくつか書き出してみます。コーポロ2021年8月号