産直牛乳のあゆみ

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早朝の牛乳配達は、生協づくり

1964年に始まった早朝牛乳配達は、2台のトラックで洛北の地域を配達していました。
牛乳利用者の拡大は“生協づくり”でもあったので、生協発足の趣旨も説明しながら、初めのころは1日350本ほどの配達をしていました。当時は「牛乳は生協経営の大黒柱」の一つと位置づけ、牛乳のおすすめにとりくんだのです。
当時の家庭係り(現在でいう配達担当者)は、午前3時から4時間程かけて牛乳を届け、その後8時位から商品の注文うかがいに出発するという毎日。冬には比叡おろしが容赦なく吹きつけ、雨の日はずぶ濡れになったこともありましたが、この職員の姿をじっと見守り、温かく応援してくれたのは組合員さんでした。

「私たちの牛乳が飲みたい!」

当時の牛乳を作っていたメーカーからの値上げ要請が、1964年、1967年と続き、「不当な牛乳代値上げに反対しよう」と反対運動の一環として、1967年から牛乳の共同購入運動を呼びかけました。しかし、こうした運動も値上げを短期間引き延ばすに留まるだけでした。
また、1965年ごろはビタミンなどの栄養剤や添加剤を添加した『加工牛乳』が主流で、マスコミ報道でも「ヤシ油混入の疑い」などが大きく取り上げられ、「メーカーの牛乳でない私たちの要望する牛乳が欲しい」との組合員さんの声も高まっていました。そんな中、1969年に鳥取県生協連からの紹介で鳥取の大山酪農農協の存在を知り、生産者と直結して独自の牛乳が開発できる道が開けたのです。
1年にわたる話し合いが重ねられ、160人程度の組合員代表が現地を視察し、酪農民との懇談・交流・牛乳の試飲を行い、「昔飲んだ牛乳の味だ」と歓迎されました。
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産直第1号商品「コープ牛乳」の誕生

しかし、現地視察の組合員さんからは「鳥取工場の装置は安心できるが、鳥取と京都間を毎日輸送できるだろうか」などの心配の声があがりました。大山乳業の人たちは「なぁに、石にかじりついてでも運びますけん」と応えていただき、第1号車が桂店に到着した時は、組合員さん・職員がそろって出迎え、皆で喜び合いました。これが「鳥取と京都のミルクロード」のはじまりです。
こうして1970年、産直第1号商品としてコープ牛乳が生まれ、「自然のままの牛乳がほしい」と問い合わせが相継ぎ組合員数が急増。1日16,000本の供給量を超えるまでになりました。
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酪農の危機からの産直活動の前進

1971年に始まったオイルショックのもとで物価は急上昇し、飲料なども高騰。しかし乳価は下がりました。大山乳業でも酪農を離れる人が続出し、1973年には集乳量が大幅に減少しました。
京都生協は、生産者と一体となって「青年酪農家を囲む会」や「酪農危機突破、コープ牛乳を守る組合員集会」などにとりくみ、酪農家を励ましました。また、「京都生協酪農振興基金」として、21頭の子牛を購入して大山酪農青年部に飼育を委託。基金は千代川河川敷の牧草作りなどにも使われました。
コープ牛乳を守り産直活動を大きく前進させたこの運動以来、鳥取県の各農協との提携は二十世紀梨、牛肉、豚肉、米などへ拡大。1984年には鳥取県産直協議会が結成されました。
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産地が2つの産直牛乳

現在、丹後支部の組合員さんには、「コープヒラヤミルク」という産直牛乳が届いています。メーカーの平林乳業は京都 府内にあり、2000年に京都生協と組織合同した「あみの生協」(京都府北部網野町)と産直提携していました。
こうして配達エリアを分担しながら、大山、平林の2ヵ所から産直牛乳が届いています。

1978年に洛南生協(1972年発足)と京都生協が組織合流した際に、洛南生協のコープ牛乳を生産していた綾部酪農 (現在のJA京都酪農センター)とも産直提携を結びました。しかし、2009年の綾部ミルクプラント閉鎖に伴い、 産地と生産者が大幅に拡大されたことをきっかけに、2010年5月末をもってJA京都の産直牛乳は中止となりました。
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