60周年

平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談

今も鮮明によみがえる幼い日々田中富久子さん

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疎開先での防空壕

私は京都市南区で生まれ、4歳まで過ごしていました。その頃から戦争が激しくなったので、父親の実家である宇治市木幡へ疎開しました。
その家の庭の桜の下には、家族4人だけが入れる小さな防空壕が作ってありました。次第に空襲の回数も増え規模も大きくなってきたのでこれでは心細くなり、隣組の4~5軒の人たちと空家の下に地下壕を作りました。布団や衣類、食料品まで一通り持ち込み、電灯も点くようにしてありました。私たち子どもは6~7人いたと思います。地下壕にはいると外の物音も聞こえてこないので、子どもたちは勉強をしたり、トランプやカルタで楽しんだりした思い出があります。

死と隣り合わせの日々

幼稚園には電車に乗って通っていました。ある日一人で登園している時、空襲のため観月橋で電車が止まりました。車掌さんが私を横抱きに抱えて走って防空壕まで運んでくれました。ずっと泣きたいのを我慢していると「だいじょうぶ、だいじょうぶだよ」と抱いていてくれました。外では爆弾の音が聞こえていました。幼いながらに、このまま両親にも会えず死ぬのかなぁと思ったことを覚えています。

戦況悪化で生活物資も足りず・・・

一年生入学の頃には、さらに戦況が悪くなっていました。学校へは六地蔵から黄檗まで歩いて通いました。傘や靴が無い子どもたちも多く、雨の日には学校へ行く子どもが半分くらいに減りました。

心に焼きつく真っ赤な西の空

やがて昼夜を問わず空襲があるようになりました。毎日毎日焼夷弾が落ち、びくびくとして母にくっついた生活をしていました。
ある晩、大きな爆撃があり、地下壕まで響き揺れました。空襲警報が解除になり外に出て見ると、西の空が真っ赤でした。体が震えて恐ろしくて朝まで眠れませんでした。後に大阪の爆撃だと知りました。

終戦の日

夏の暑い日、天皇陛下のお話がラジオで放送があるとのことで、防空壕の中のラジオを家の表に出して全員で聞きました。私は小さかったので何と言われているのかわからなかったのですが、隣の家のおじさんは私を抱き上げ「もう戦争は終わったんやで。空襲もないんやで。けれど日本は負けたんやで」と泣いて説明してくれました。私もうれしく、空を見上げ雲一つない天にむかい「万歳万歳」と言いつつ泣いていました。
戦争中のことも少しずつ忘れ、今の生活に不足を言いつつもやはり戦争はごめんです。