平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談

幼い瞳に映った今日の戦中戦後山科区 三野さん

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京の町から見上げる空には

昭和16年に手描き友禅の仕事をしていた父が徴兵されたとき、私は三歳。母のお腹には妹がおりました。妹が生まれてまもなく、父はフィリピンの南にあるハルマヘラという島へ出兵して行きました。
疎開が進んでガランとした町内。見上げる屋根のずっと上を、毎日のように何機ものB29(爆撃機)が東を目指して飛んでいくのを、怖々見ていました。大阪で空襲があり、西の空が赤く見えた後は必ず雨が降り、燃えかすが西風に乗って飛んできました。
各地で空襲が激しくなり、英米軍の飛行機が頻繁に空を飛ぶようになると、空から狙い撃ちされないようにと、下着の白色、洋服のきれいな黄色やピンク・赤色などは、すべて父の残した染料を使って見るも無残な灰色へと染められました。

有無を言わさず広げられた御池通

当時の御池通は、ほかの東西の通りと同じ道幅でした。しかし、戦火の広がりを避けるために南側と北側の何軒もの家が倒され、今の広い道となりました。柱に綱をかけ、家が倒されるときはすごい土煙が上がりました。当時、屋根瓦は土で固定されており、その下には薄い木が敷き詰められていました。風に舞って飛ぶその板を、持って帰って焚きつけにしようと拾い集めていると、恐い顔の男の人が来て叱られ、取り上げられてしまいました。

終戦間際の小学校生活

小学校は府庁前の梅屋国民学校へ入学しました。教科書はもらえましたが、ノートは家にあった古いあり合わせの便箋を使いました。勉強中でも空襲警報のサイレンが鳴れば帰り支度をし、暑い夏でも綿入れの頭巾をかぶりゴム草履をはいて、飛行機に上から狙われないよう気にしながら各家庭の軒下沿いに走って帰りました。

深く残る戦争の爪あと

私が本当につらく悲しい思いをしたのは戦後でした。
戦後は、貧富の差が激しくなり、世の中の仕組みや制度が日々変化していきました。広くなった御池通は、一時期、各家庭の作る野菜畑となっていました。
幸いにも父が帰還してきて親子四人の生活に戻ることができましたが、父の体はマラリヤと強いヤシ酒の影響でアルコール中毒にむしばまれていました。
その後すぐに妹が生まれて五人家族となりました。しかし、産後体調が戻らない母と、思うに任せない生活に、気性が激しくなってしまった父。戦争の後遺症は長く尾を引き、本当の意味で人並みの生活になるまでには10年以上の歳月がかかりました。
戦争は二度とあってはならないと心底思っています。