60周年

平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談

今でも茜色の夕焼け空は恐ろしい福知山市 井上さん

  • 空襲

旧国鉄の稲荷駅(伏見)に勤務していた当時15歳の私は、駅長のすすめで大阪鉄道教習所電信科の生徒として、親元をはなれ神戸の鶯鳴(おうめい)寮でくらしていました。日を追うごとに空襲警報が増え、寮から防空壕への避難をくりかえす日が続き、そして3月17日、あの怖ろしい神戸大空襲が起きました。
「ドカーン、ドーン、バリバリ、ヒューン」と地響きを伴う爆音のなか、防空壕で身を寄せ合う私たちに、「いつもと違う、全員避難せよ」と寮長先生の声。みな思い思いに散るなか、私は同じ京都出身の生徒らと山へと逃げました。下から上がってくる熱気を感じながら何気なく見上げた空は、昼間より明るく真っ赤な茜色。一部残っていた青い空にもグーッグググ・・・と赤い炎がせまり、ハケで刷いたようにサッと赤一色に。本当に空が燃えているようでした。
空襲で神戸の町は焼け野原。ようやく4月下旬に帰省許可がおりて稲荷駅へおり立つと、母が目を白黒させ「ユーレイが帰ってきた」と驚きました。母は駅長から「一ヶ月も何の連絡も無い。娘さんのことはあきらめてほしい。」と言われていたのです。「ユーレイちがう。夢ちがう。」と、二人で大粒の涙をポロポロながし喜び合いました。
今でも、美しい茜色の夕焼けを見ると、あの夜のことが思い出され恐くてたまりません。15歳の乙女の心についた傷は死んでも消えそうにありません。