60周年

平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談

お国のための労働はあたりまえ長岡京市 松井さん

  • 学徒動員

私が高等女学校に入ったのは、戦況が悪化した1944年。このころにはもう勉強どころではありませんでした。授業はわずかばかり、そのほとんどの時間は勤労奉仕にあてられました。
学徒勤労動員として行った工場では、航空兵(飛行兵)が食べる葉緑素入りの緑色のゼリー菓子を作っていました。私は工程終盤の重さを量る係り。軍隊に納める大切なものだから、規定より少し重く仕上げるよう厳しく決められていました。毎日工場で働き、一週間の終わりである土曜日には飴玉を10個もらいました。当時はそれがうれしくてうれしくて、持って帰り家族で分け合って大切に食べたことを覚えています。
農作業もありました。私の通う女学校は、東京の街なかだったため校内が狭く、郊外に農園を借りていました。クラスごとに当番があり、列車に揺られての1日仕事でした。天気の良い日は、日に焼けて顔じゅう真っ赤に火ぶくれしてしまったこともありました。
もう少し勉強をしたいという思いはありましたが、「ほしがりません勝つまでは」の教育のもと、誰ひとりとして不平不満も言わずにがんばりました。当時を振り返り、教育の持つ力の大きさとともに大切さをひしひしと感じています。