一山村の敗戦京都府城陽市 加藤節子さん
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1945年の夏、7歳であった私は、「戦勝祈願」と書かれた大きなのぼりを担いで、村の道を歩いていた。
道の端には田んぼが並べて連なっており、多くの村人が田の草取りに忙しい。
「節ちゃん、お宮さんに行くんか」
「うん。お父さんがこれ持ってお宮さんに参ってこいって言わんした」
村の北端の私たちの集落からは、片道2km以上はあったと思う。のぼりを担いで神社に行きお参りを。帰ってくる途中で友達に会ったりした。
父母や6歳年上の姉は、山仕事や畑仕事に行っていた。代わりに私がお参りをすませて、隣りの家にのぼりを持って行く。
「うちのお参りしてきたで」
こうして、隣り番で戦勝祈願をしていたのだ。村の多くの若い衆は、誰もいなかった。みんな兵隊さんになって戦地へ行っていた。
夜は夜で、隣り組回り持ちで寄り合いがあり、そこでも神社に祈願をしていた。昼間の山仕事や野良仕事で疲れ切った大人たちは、早々に形ばかりの寄り合いをして、帰って行った。
学校でも軍事訓練があり、小学校の低学年はそれを立って見学していた。訳はわからなかったが、部落(集落)の中で、どんな理由からか必ず殴られる生徒が2、3人いた。なぜこんなひどいことをされるのか。彼らは、陰で「朝鮮部落の奴らや」とささやかれていた。私は、そのことを父母に尋ねたこともなかった。みんな黙っていたからだ。
8月15日、集落にラジオのある家はほんの数軒で、ラジオのない家の者は、ある家に集まって重大放送を聞くようにと命令が下されたが、私は全く知らなかった。父が電気関係の仕事をしていた経験から、わが家にはひどく貧乏な暮らしにもかかわらず、ラジオがあった。しかし、私はその重大放送の記憶は全くない。戦後、姉が教えてくれた。
「うちにみんなが来なってな。みんなでラジオを聞いたけど、分からんかったんや」
夕方頃には、村役場から「ふれ」があって、村人は敗戦を知った。
15日夕方、精霊送りと称して川に集まり、墓に模した石組みを崩す。父が隣人たちと会話していたのを記憶している。
「なあ、戦争は負けたんいやげな、な」
「うん。そうらしいわ。けど、わしらは明日も山へ行かんとな。盆の間、休んだし仕事が残っとるわ」
私は、黙って聞いていた。そうか。戦争は負けたんか。谷川のせせらぎの音が、急に大きくなったように見えた。ささーっ、ささーっと。