60周年

平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談

空襲で全滅した町。聞こえるのは泣き声とつらい話だけ望月福江さん

  • 暮らし
  • 空襲
原 本

山があっても山梨県の甲府市で昭和4年に生まれました。
繁華街から少し離れた静かな住宅街でしたが、大きなお寺があり、花屋さん、八百屋さん、乾物屋さんなど買い物には不自由のない町だったように思います。小学校の門の前には文具屋さん。年輩のご夫婦が静かに商売をしておられました。高い建物はなかったので、どこにいても富士山が見えます。
「お店の商品がこの頃少なくなっている」と、母は心細げにつぶやいていました。店では「軍隊へ納めるため」と伝えてくれたようでした。私も古いリュックを背負い、田舎への買い出しを手伝いました。
「一億総決戦」
「欲しがりません勝つまでは」
町のあちこちに貼られた文言に、父は「馬鹿な戦争をしたもんだ」と悔やんでいました。ある日、世界地図を私に見せて「アメリカは広い」「日本は小さい」「今の戦争は、〝大人と子ども〞の戦争だ」と。私は、「日本は神風が吹いてくれるから大丈夫」と、安心していました。母は私に「お父さんの話をよその人に話さないでね」とダメ押し。セーラー服にもんぺ姿の私は、防空頭巾と包帯や薬を入れた袋を肩にかけて通学。誰もがそうであったように、空腹に耐えていました。体操服などは洗濯のたびに〝つぎ〞をあて、雪の日は母の高歯の下駄を履いて通いました。
昭和20年8月6日の夜、アメリカの戦闘機による爆撃で甲府の街はほぼ全滅。父は「防空壕に入るな。ブドウ畑に逃げろ」と叫びました。雨のように降る火の粉が防空頭巾に落ちて「もう駄目」と思いました。ブドウ畑に着いた時には、体はガクガク。それでも、いつものように夜が明けました。家族は何とか助かり、みんなで家のあたりまで行ってみました。ある家では、親が必死で止める手を振り切って、娘さんは「忘れ物!」と火の中に飛び込んだと聞きました。私の家の焼け跡から鉄の鍋が見つかりました。雪の降る夜に「おほうとう」を炊いてくれた鍋でした。防空壕に避難した友達一家は全員亡くなり、市役所の大きなトラックの荷台に積まれていきました。耳にするのはつらい話ばかり。
よくお弁当を届けた父の勤め先の郵便局は、見た限りでは大丈夫のようでしたが、建物の中の書類などは灰になったそうです。市役所は少し崩れていました。
世界中で戦争は絶対やめてください。戦争は全く無益です。