平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談

亡き母と赤ちゃんが寝ていたベッドはどこへ福井君子さん

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第2次世界大戦(大東亜戦争)が始まったのは昭和16年12月8日。私の母方の祖父が亡くなった日でもありました。その日を境にして、軍国主義が始まっていくのです。
実家の里は、老ノ坂トンネルの横の坂道を上がり、小川が流れ夏は蝉しぐれの降る中にありました。私の従兄は戦死して靖国神社へ。私たち子どもも、千人針をしたり慰問袋を作ったり。女学校では食糧生産のために無償で農家の草引きに参加しました。畑で小麦を作り石臼でひいたこともありました。小学6年生の春、父の実家の亀岡に引っ越しました。父の商売は室町の絞り加工業。贅沢品は禁止となり、絞りをほどいた糸で軍手や軍足を作っていました。鶏や豚を飼い、餌を集めるのも子どもの仕事でした。
何しろ、「産めよ増やせよ」の時代で8人の子どもがいて、9人目のお産で母は亡くなってしまい、後を追うように赤ちゃんも天国へ。300坪あった家は、3つに分断され、一部は官舎になってしまいました。税金が払えなくて家具は差し押さえられて封印。役人が来たときには、21歳の私が立会人として対応しました。
府立第一高女を卒業して洋裁学校に通っていた姉は、「十九の春」に亡くなりました。私は、亀岡高等女学校を卒業し全日制の洋裁学校の本科・高等科を修了することができましたが、弟妹たちが公立の学校に通学するのは大変でした。戦争のために子どもも苦労し、「供出」した亡き母のダイヤの指輪や帯留め、鉄の薬缶、母と赤ちゃんが寝ていたベッドはどこに消えてしまったのでしょうか。