60周年

平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談

太平洋戦争の時代に生きて西島みちよさん

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72年前も、空は抜けるように青かった。今と違ったのは、B-29が飛行機雲を長く伸ばし、大阪に向かっていったことだ。南の空が真っ赤に染まり、それは翌日まで続いた。大八車に家財を積んで避難してきた人が「大阪が大空襲にあった」と言った。当時は人づての話が主な情報源で、ラジオや電話は学校や役場にしかなく、戦況は校長先生の話を信じるしかなかった。大本営発表は「敵に大損害を与え、我が方の損害は極めて軽微なり」。国民は蚊帳の外で、310万人の犠牲者の実態も戦後まで知る由もなかった。従兄弟は20歳の若さで出征し、ミャンマーに消えたのか、今も帰ってこない。
私は滋賀の山村生まれで、直接戦火を被ることはなかったが、経済戦争はもろに被った。「欲しがりません、勝つまでは」と教えられ、小学生時代はずいぶん我慢させられた。古着につぎを当て、新品を着たことは一度もなかった。学用品もなく、古新聞が真っ黒になるまで字を書いた。年に一度の祝日でさえも、叔父のくれた鮭一切れの弁当を、「おーい!こいつ、鮭食っとるぞ」と騒がれた。川で捕ったタニシやドジョウなど、食べられるものを探し、古物を再生して私は生き延びた。
しかし、昭和16年から病気で伏していた母は、栄養不足で満足な治療も得られず、昭和21年に5人の子を残してこの世を去った。みんなモンペと草履姿で葬式に参列した。近所の人がお供養に作ってくれたぜんざいは、砂糖が手に入らないため塩味だった。
戦争は昭和20年8月に終わったが、食料品、日用品、衣料品不足は昭和30年ごろまで続き、国民の生活苦は長く続いた。戦争は、もうこりごり。世界の人々と、手を結び平和を守ろう。

※大本営発表・・・太平洋戦争において、旧日本軍が行なった戦況の公式発表。初期は大体正確だったが、作戦が頓挫した珊瑚海海戦(1942年5月)の発表から戦果の水増しが始まり、以降は戦況の悪化に関わらず、虚偽の発表を行なった。