60周年

平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談

「平和は当たり前ではない」決死の思いで生き抜いた戦中・戦後佐藤光一さん

  • 空襲
  • 戦後
原 本

太平洋戦争は、昭和19年から20年8月の終戦までの約1年余りの間に被害が集中した。私が小学校4年生から5年生のころだ。町内では戦死者が毎日のように遺骨で帰ってきた。「お国のための死は尊い」と、遺族は人前で悲しむことを許されなかった。私の叔父はビルマで戦死し、叔母は生活苦と不安から子ども3人を道連れに自害した。気の毒だったが、どうすることもできなかった。
私が住んでいた福知山には連隊があった。農家だったので保有米めあてによく兵隊がきて「ご飯を食べさせてくれ」と土下座した。両親は兵隊にご飯をあげたが、私は日本軍を情けなく思っていた。
昭和20年7月29日、米軍が機銃掃射してきた。低空飛行で人も狙い撃ちされた。バリバリとすごい音がして、頭上から銃撃された。死ぬと思った。すぐに近くの民家に逃げ込み助かったが、外は米軍のやりたい放題だった。その時、日本軍は近くにいなかった。
そして戦争は終わり、福知山の飛行場にアメリカの戦闘機が着陸した。MP(アメリカ軍の憲兵隊)が銃を構え警戒していたが、場を離れたすきに友達と戦闘機に乗った。その時、MPがジープで引き返してきた。私たちは一目散に逃げたが、みんな捕まった。MPは銃を構えた。「これまでか。」死を覚悟し、頭を抱えうつぶせになったが、子どもなので殺されなかった。
最初に覚えた英語は「ギブミーチョコレート」。しかし、私の両親は進駐軍から食べ物をもらうことを固く禁じた。栄養失調でたくさんの国民が死んでいった。ある日、先生がみんなの弁当箱に缶詰の牛肉を入れてくれた。「どうやって手に入れたの」と聞くと、先生は涙を浮かべ、小さな声で「アメリカ」と言った。悲しいが、すがってでも盗んででも食べなければ死ぬ。私は乱れた世をこの目で見てきた。悪いことは自然と身に付き、ここまで生き延びることができた。「戦中戦後の混乱期に正義は役に立たない」と私は考え、また体験したのだ。
戦争は体験しないと、その凄まじさは分からない。今の人が戦争の恐ろしさを知らないのは仕方がないとも思う。ただ、今が平和なのは決して当たり前ではないことを分かってほしい。日本で、世界で起こっていることに関心を持ち、戦争について考えてみてほしい。