60周年

平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談

厳しい戦争統治下で曾祖母が示してくれた道大和田多可さん

  • 伝聞

私自身は戦争を体験していません。父は海軍で南方へ従軍しましたが、何一ついっさい語らず(語れず?)他界しました。
母から聞いた話は、“壮絶、悲惨な戦争体験”ではなく、普通の女学生とその家族のただの会話です。しかし私には「これが“戦争”なんだ」と思え、聞き流すことができずに40年間、私の中にあります。

私がテニスに合唱にと明け暮れた高校・大学のころ、母はふと「私があなたくらいのころは、そんな風に明るい楽しみなんて何もなかった。楽しいことなんて考えられなかった…」と話し始めました。

「看護師になりたかったわけやない。祖母に『お前、女学校へ行ってゲートルを縫っていてもしようがない。それより看護学校へ行きなさい。そうしたら家庭に入ってからも何かの役に立つ』と言われたからや」
たったこれだけの短い日常会話でさえ、
・ 勉学の権利なんてない。学ぶはずの場では子どもも戦争幇助のゲートル作り
・ 職業選択の自由なんかない(か、極めて限られている)
・ 楽しみなどなく、考えることすらできない。夢はもちろん、望みを持つことも許されず、明るさなんてない。
少なくとも、そんなことが分かります。

母はその後、私の幼少期にしばらく休職したのち、75歳まで看護師を続けました。衛生感覚や傷病の手当て、日常的な病気の症状と見極め、衛生管理など、曾祖母が言ったように「家庭に入って役立つ」ものは、その通り、確かに私の中にあります。包帯を巻く時、台所のふきんをこまめに塩素消毒する時…。「私」から「母」を通して「戦争」までつながります。

生死の淵を歩むような体験からは免れた者からも、現代なら当然手に入るものをことごとく奪っていくのが戦争なのだと、怒りでいっぱいになります。
一方で、「ゲートル縫ってもしようがない」と他人に聞こえてはならぬことをさらりと言って、孫の未来をわずかでも照らし導いた曾祖母のように、時勢と未来を見抜く視野をもった利口な女性でありたいと思います。

※ゲートル・・・すねの部分に巻く布・革でできた被服。軍服に用いられた。