母と姉が語った引き揚げの苦難の記憶酒井千津子さん
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雨の日の縁側で繕い物をしながら、母は独り言のように、小学生の私に引き揚げのことを語ってくれた。「結婚しようと思ってた人が戦死してな。『誰でもええわ』と思って、2人の小さい子を抱えて困っていたお父さんのとこへ来たんや。けど、結婚式を挙げて、お父さんの赴任先の羅津(らしん)に着いて1カ月もたたんうちに避難命令が出て、鍋と毛布と、ほんの少しの着替えを持ったまま家を出たんや。」
羅津は北朝鮮の中でも最も北だ。列車は走っていない。線路伝いに、とにかく南へ南へと歩いた。当時5歳の兄の背中にも毛布がくくりつけられた。知らないおじさんに「ぼく、その毛布重いだろ。持ってあげる」と言われて、兄は喜んで預けたらしい。毛布はそのまま返ってこず、残り1枚の毛布で4人が寝ることになった。
近所の足の悪い娘さんが、両親に置き去りにされていた。見かねた父が手を引いたり、負ぶったりしながら連れて歩いたが、すでに自分の子どもたちだけでも精一杯だった。途中、人通りの多いところで「ここで待っていたら、きっと君のご両親に会えるから」と、置いてきたそうだ。
お金がなくなると、父は頼み込んで農家の手伝いをしてお米や大豆をもらってきた。母は用を足すふりをして畑に入り、こっそりかぼちゃをもらってきたそうだ。
母が亡くなってから、当時8歳だった姉に「引き揚げの時のこと、覚えてる?」と聞くと、「あんな惨めなこと、誰にも話してないわ」と、ポツリポツリと語ってくれた。
「大豆はよう炊けへん間に食べたし、いつも下痢してなあ。お風呂にも入れへんし、ノミが体中にわいて、プッチンプッチンつぶして。農家の軒先を借りて寝たり、野宿の時は竹の先と先を結んで屋根にしたり。誕生日にお父ちゃんが買ってきてくれた人さし指くらいの魚が、1年半かかった引き揚げ中の一番のごちそうやったわ」と。
今から思うと、母はあんな惨めな体験をする戦争は二度とごめんだと伝えたかったのだろうと思う。