家族がバラバラになった戦争西村恭子さん
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昭和20年3月まで、京都府庁前に両親、兄3人、姉、私、妹2人の9人で住んでいました。私は当時、小学3年生でした。
長兄は15歳で徴兵され、舞鶴港で乗っていた軍艦が爆撃に遭い沈没。その時、兄は地下で食事係をしていて助かりました。甲板には死体がゴロゴロあったと聞いています。
次兄は徴兵で特攻隊へ。天皇陛下のお盃をいただき、明日は出撃のところで終戦となり命は助かりました。兄2人が出兵の時は万歳三唱で送り出しましたが、その夜、父も母もずっと泣いていました。
戦争は激しくなり、市役所前、府庁前は類焼を避けるため強制疎開を余儀なくされ、残された家族7人は母方の叔父のツテで、島根県浜田市周布へ疎開しました。汽車に15時間ゆられて着いた先は、山、川、海が近く、自然に恵まれていました。京都では配給の雑炊でひもじい思いをしていましたが、母が着物、帯、掛け軸などを、お米、実、野菜と交換してくれました。
昭和20年8月6日、広島に原爆投下。その時、私たちが周布川の堤防から見た空は真っ黒でした。そして敗戦、ラジオの玉音放送を聞いた三兄は泣いて裏山へ走りました。
夏も終わる頃、長兄と次兄は大きなリュックを肩に帰ってきました。母はずっとずっと泣いていました。母は後に「京都へ帰りたい。でも京都には家もなく、帰る汽車賃さえもなく、途方に暮れていた」と言っていました。
父と長兄、次兄はやっと見つかった漆搔きの仕事のため、終戦から3年余りを経て京都へ。私は小学6年生の卒業式を終えて京都へ戻りました。
恐ろしい、悲しい戦争。絶対にしてはいけません。