60周年

平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談

徐々に日常を蝕む戦争京都府京都市右京区 小野恵美子さん

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私が小学3年生の頃に日中戦争が始まり、近所の小父さんたちが次々と軍服姿で中国へと送られた。1、2年すると白い箱の中にお骨になって戻ってこられ、名誉の戦死という名前に変わってしまわれた。そのような日々が、私たち小学生の生活の日常になってしまっていました。

女学校1年生の頃、上級生に埋まっているセーラー服姿の中に、定期券を持ち、嵐電と市電を乗り継ぎ通学していた、緊張のまだ解けていなかった12月8日の朝。登校前の靴をそろえていた時、ラジオから軍艦マーチが勇ましく鳴りだし、「今は未明、真珠湾沖において…」と、けたたましいアナウンサーの声と重なり、アメリカと戦闘状態に…、と聞こえてきた。母は、「これは大変なことになるね…」とだけ言い、私に「行っていらっしゃい…」と声をかけてくれたのを覚えている。

最初の頃の戦争は、近所のおじさんたちが軍服を着て、近所の人たちに見送られて、最初は中国本土に…。だから私たちの日常生活には、それほど影響はなかったものの、日に日に生活は厳しく、近距離の電車通学は徒歩になるなど、少しずつ私たちの日常にも影を落としていきました。そのうち「スカートではなく、モンペ(農家の人たちの労働着)でなくてはダメ」と注意されるとか、学校農園で岩倉の広い土地に、学年交替で鍬を担いで耕しに行くことにもなりました。たぶん先生も初めてのことでご苦労なさったと思います。「学生は学問を…」の時代は、「学生も銃後の守りと増産に励む」に成り代わり、そのうえ「戦争勝利と、戦っている兵隊の無事祈願を」と、当時の女学生たちは神社への参拝を定期的に行っていました。

戦況の傾きにより、女専の先輩たちは舞鶴の海軍の基地へ、私たち在校生は兵庫県の伊丹へと勤学動員へ赴きました。敗戦前の夏に、京都市内の女学校生徒は真面目に働きました。動員先の寮生活では粗末な食事でも空腹でも我慢しました。私は当時の状況を母に聞いてほしくて、日記を書き続けました。その日記は今も書棚のどこかにあります。毎日、朝夜となく鳴るサイレンに「もう死んでもええし、寝かせて…」との同室の人たちの切ない思いが聞こえてきたこともありました。

戦後の世代にこうした悲しい少女時代を体験させたくない、との思いで生きてきました。

※女専・・・旧制女子専門学校の略称。日本において学校教育法が施行される前の、専門学校令に基づいて女子に対して専門教育を行っていた高等教育機関のこと