60周年

平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談

私の子どもだった頃京都府京都市右京区 笹井ます子さん

  • 疎開
  • 空襲
  • 被爆
原 本

昭和20年まで京都に暮らしていました。その年の3月には大阪大空襲があり、警戒警報が鳴るとすぐに下校。空襲警報のサイレンが鳴るとすぐに下校はできず、机の下にもぐりこんで動けない。夜は電灯に風呂敷をかぶせて、暗い中で寝ていました。

その後すぐに10歳の私は8歳の弟と4歳の妹とともに、岡山県津山市の母の実家へ疎開をしました。生まれて初めて親と離れ、知らない土地での生活は淋しかったです。

津山では「よそもん!」といわれ、食べ物もなく、辛い毎日でした。そんな生活を送る中、夏休みの8月6日の朝に、祖母と丘の上の段々畑へ行った時、空が急に暗くなり、真っ黒な大きな雲が頭の上に被さって、大粒の黒い雨がザァーと降ってきました。私はおばあちゃんに抱き着き動けませんでした。その時のことは、今も忘れることができません。「よそもん、よそもん!」といじめられ、京都の母が恋しく、裏山から鉄橋を走る汽車ポッポを眺め、泣いている妹の手を握りしめて泣きました。今、平和な生活が当たり前の子どもたちに、二度とあのような淋しくて辛い想いをさせないためにも、平和の願いを込め、現在のコロナの禍にも打ち勝っていきたいと望んでいます。