平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談

第1回大阪大空襲の記憶赤星玉英さん

  • 空襲
原 本

75年も前のことですが、今も鮮明に思い出します。
昭和20年(1945年)3月13日夜11時前、眠りかけたその時に空襲警報が鳴り響きました。とにかく支度を、と起き上がり、普段の着物を着て、生後10カ月の長男を背負い、夫の両親のいる階下へ降り、床下に掘られた防空壕へ入りました。しばらくすると、ここは危険らしいから出るように言われました。夫と義父はその場に残って、私と義母は近くにあった鉄工所の防空壕へ行くと、大勢の人が集まっていました。間もなく爆音が聞こえ、フットボールのような大きな焼夷弾がバラバラと降り、まるでたき火を燃やすように家々が焼けていくのを見ました。2階建ての一軒家が3分ほどで焼け落ちました。幸い、鉄工所の方には焼夷弾は落とされなかったので体は無事でしたが、家はまる焼けで、一瞬のうちに着の身着のまま、無一文のありさまになってしまいました。桜橋の義母の実家へ行ってみようとなり、地下鉄の大国町駅へ行くと、来る電車はみな梅田方面を目指す人で溢れかえっていました。朝まで待っても乗れそうにないので、地下から上がって夜中の御堂筋を歩いて行くことになりました。トボトボと歩く途中で犠牲になって倒れている人につまづき、さらに歩いていると、軍隊がそんな亡くなった人をトラックに乗せているそばを通りました。
朝方、ようやく桜橋の家に着くと、義父と夫も無事に辿りついていました。やっと子どものおしめを替えたり、お乳を飲ませることができました。そのころになって、京都から嫁入りに持ってきた着物は何十枚も躾糸がついたまま、灰になってしまったことが胸に浮かんで、空しい気持ちになりました。
その後、義父は警察へ行って大学ノートの切れ端に書かれた「家族5名」という戦災者の証明をもらってきました。それを私は、京都に戻ってきた今も大事に持っています。