60周年

平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談

学びの機会を奪われた学生生活久保朱實さん

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原 本

父は南朝鮮(韓国)で砂防技師として、総督府の任務についていました。現地で生まれ育った私は、日本人学校の国民学校に昭和17年に入学すると、大東亜戦争(第2次世界大戦)から2年目で、軍事一色でした。当時2年生から勤労奉仕で、課外活動の田植え、松脂(まつやに)の枝取り、日本軍の演習の煙幕の見学、頻繁に出征される兵隊を、旗と軍歌で見送りました。それから傷病兵への慰問、戦地の兵隊への慰問袋に、激励、感謝と「毎日学校に通えるのは、兵隊さんのおかげです」と、お礼は必ず書くように指示されました。昭和20年(当時4年生)になると、勉強よりまず「軍事教練」で、登校時ゲートルを巻き、便箋5、6枚に軍歌を書き写し、ひもで首にぶら下げることを強制されました。忘れたら体罰を受けました。4年から6年生は、軍服の兵隊から先に敬礼と最敬礼を習い、号令により行進、「回れ右、右向け右、行進、回れ左、左向け左、行進、全体止まれ」等、機敏な動作を厳しく指導されました。戦争の悪化とともに、本来の学業はどんどん減らされ、このような軍事教育や勤労奉仕が増えていきました。大切な「教育を受ける機会」も奪われ、非人間的で重苦しい時代でした。やはり戦争は二度と繰り返してはいけませんね。