学徒動員の思い出京都府京都市中京区 塩見英三さん
- 学徒動員
昭和19年の7月、米軍の犯行によるサイパン島で激戦の最中、僕たち旧制中等学校の3年以上全員が、学徒勤労動員令により7月3日、京都市から100キロも離れた東舞鶴に向かった。
当時、主食の米をはじめ、ほとんどの生活必需物資は統制され、配給制度の下で、不自由な生活をしていたが、「欲しがりません、勝つまでは」の標語のとおり、耐え忍んできたところだ。山陰線はトンネルが多く、機関車の煙がすき間から入り、窓を閉めても煙たかった。綾部で乗り換え、さらに進んで東舞鶴駅に到着。駅前広場に整列した片方には、幾柱かの英霊が白布に包まれた箱の中に、舞鶴出身の方が無言で凱旋された。その光景を見て目礼をしながら、宿舎のある森四寄まで歩く。トランクなどの手荷物はイカリのマークのついたトラックが運んでくれた。15分ほど歩いて、宿舎につく。舎前に整列し、舎官に敬礼をし、着任の報告後、訓示を受ける。その後、各組の部屋割りがあり、部屋に7人が入る。いよいよ今日から集団生活が始まる。今までとは違って規則正しい生活をする指針日課が、事細かく定められている。特に朝の起床は午前4時55分。「総員起こし、5分前」から始まる各種の事柄は、まったく軍隊と変わらない。そして1週間ほどは、軍歌演習をしたり、中舞鶴の共楽公園まで行軍したりし、10日から実習作業に入る。場所は「海軍機関学校内の作業場」で、7月31日まで、工廠の指導員が5名。厳しい毎日の実習訓練に、僕たちは歯を食いしばる。7月19日、大槻組長よりサイパン島玉砕の戦況を聞く。小林指導員から藤田東湖(水戸藩の儒者)の「正気の歌」を教えてもらう。「天地正大、気粋然鐘神州」からスタートして、最後まで、毎日暗誦させられた。7月30日、今朝30度近い気温の中、僕たちはいつもと違って尻崎に向かって急いだ。新鋭駆逐艦「榧(かや)」の進水式を見学するのである。船台の見える場所で待機していると、午前8時30分、支綱が切られ、船台から海に向かって滑り出すと同時に軍楽隊の奏でる軍艦マーチが響き渡った。艦は無事に海上にあり、以後1ヶ月儀装工事を終えて、海軍省に引き渡されるそうだ。8月1日、今日から工廠内の工場で働くことになる。造機部器具、工場憤然機工場で作業することになる。私たちは、2階のゲージ場で、最初は4艇の推進器のゲージを作り、その後、真鍮のスクリューをゲージに合わせてやすりで削る作業が、毎日続く。工員さんの中には、徴用で来た人や養成所を出た人などが多くいた。11月18日、見たこともない大きな戦艦が入港していた。誰ともなしに聞くところによると、「巡洋艦利根」で、修理のための母港の舞鶴に回港されてきたのだ。「これがほんまの軍艦か!」と驚愕した。
そしてその頃になると、教練査閲のために毎日練習があり、11月23日、海軍兵学校舞鶴分校の連兵場で実施された。分列行進から始まり、各個教練、密集教練、銃剣術などを受閲する。査閲の講評は「優良なり」で終わった。そして天候が雨から雪に変わるころ、雁又地区の疎開工場に転属を命ぜられ、必勝の信念を胸に卒業まで、空腹を抱え、勝利の日を夢見て作業を続けたのです。