60周年

平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談

戦争と小学生時代小南悦子さん

  • 学校生活
  • 終戦

当時、小学校は「国民学校」と呼ばれ、初等科が6年間と、高等科が2年間ありました。登校すると校門の真正面にある大きな蔵のような建物「奉安殿」の前でみんな立ち止まり、最敬礼をしました。当時は何の建物か、何が入っているのか、考える術もありませんでした。
教室に入ると、1日に何回も先生の「空襲警報発令」「敵機来襲」の大声で、私たちは一斉に机の下にもぐり込み、座布団で頭を隠し、息を殺して飛行機が遠ざかるのを待ちました。当時は「欲しがりません、勝つまでは」を合言葉に、何でも我慢させられました。
先生は校長先生と年配の男性と、女性だけでした。女子は薙刀、男子は木銃を使い軍事練習をさせられました。教科書は粗末な印刷で読みにくい、新聞紙を広げたようなものを各自で製本しました。アルミの弁当箱に麦ご飯と梅干し1個の日の丸弁当が、唯一の楽しみでした。食べ盛りの年齢で「お腹いっぱい食べたい!」と思ったのは私1人ではなかったと思います。
私が6年生になった年、長崎と広島に原爆が投下され、多くの人命や建造物などが失われました。そして終戦となり、天皇陛下の玉音放送で訳も分からず泣きました。教育制度は六三三制と改められ、新制中学1期生となった私はようやく勉強・友達づくり・遊びの機会を得ました。

※奉安殿・・・戦前の日本において学校などに設けられた、天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めていた建物