60周年

平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談

死と隣り合わせの日常藤本忠彦さん

  • 空襲
  • 学徒動員

「ヒュル、ヒュル、ヒュル」の正体

戦争が終わった昭和20年、私は中学1年生だった。当時、ちょうど豊後水道の真北にあたる、瀬戸内の山口県下松市に住んでいた。5月頃からは連日のように米軍による空襲が始まり、毎晩のごとく警戒警報のサイレン、続いて空襲警報の断続的なサイレンが鳴った。警報が出ると、私たちは布団を頭からかぶって戸外に出て、田んぼや土手の陰に身を潜めた。
ある夜、家の裏庭に作った防空壕に逃げ込んだ時のことだ。突然、夕立のような「ザー」という大きな音がした。続いて「バーン」という地響きのような爆発音。これが何度か重なり合って繰り返され、それとともに「ヒュル、ヒュル、ヒュル」と何か小さなものが飛んでくるような音がする。音はしばらく繰り返され、その度に私たちは、防空壕の中でびくびくと身を縮ませていた。そのうち、B29の爆音もやっと遠ざかっていった。
後に下松市の記録で、これは7月22日、夜11時22分から1時40分の間、42機のB29による爆撃だったことが分かった。下松市の西、末武川に架かる鉄道の鉄橋が標的だったのだ。この鉄橋から200~300mばかりのところに私の家はあった。
後で考えてみると、「ザーザー」は落ちてくる爆弾が風を切る音、「バーン」は爆弾が地上で破裂した音、「ヒュル、ヒュル、ヒュル」は飛び散った爆弾の破片が空気を切り裂いて飛んでくる音だったのではないだろうかと思う。
飛行機が去って、やれやれと家の中に入り、驚いた。爆撃された鉄橋の方角の部屋に足を踏み入れると、床一面に土が散らばっていた。あたりをよく調べてみると、柱に3cmばかりの鉄の破片が食い込んでいる。どうも家の壁を突き破り、柱に突き刺さったようだった。なんと、爆弾の破片の一つがわが家に飛び込んできていたのだった。

学徒動員中に空襲される

中学校に入学して間もない6月から、学徒動員で軍需工場で働いていた。私たちの住む街の東隣、光市にある海軍工廠がその場所だった。駅から2〜3kmばかり、隊伍を組んで歩調を合わせ、時には軍歌を歌いながら行進していたように思う。年少の私たちに与えられた仕事は、砲弾を詰めるための木箱造りであった。
ある日、いつものように木の板を組み立て、箱造りをしている時だった。突然、空襲警報が発令され、慌てて近くの防空壕に飛び込んだ。防空壕の入口あたりに砂塵が上がった。
しばらくして、警報が解除され防空壕から這い出て、外の様子を見て驚いた。30cmばかりのすり鉢状の穴がすぐそこに、一直線に伸びていたのだ。「艦載機による機銃掃射」だと後に聞かされた。私たちの入っていた防空壕が機関銃で狙い撃ちされたのだ。
米軍は瀬戸内に立ち並ぶ軍需工場が標的だったのだろう。豊後水道を目印に北上し、本州の上空で東へ、西へと向きを変えて空襲しているようであった。工廠へ通う列車がよくトンネルの中で止まっていたが、あれは空襲から避難していたのだろう。
この空襲以降、私たちは工廠から離れた、山際の横穴式の地下工場で仕事をするようになった。しばらくして、光海軍工廠は米軍157機のB29による大規模の空襲に見舞われた。工廠の70%が壊滅し、死者738人の被害を受けたという。うち133人は県内各地から派遣された動員学徒だった。8月14日、終戦の前日のことであった。

※艦載機・・・軍艦や航空母艦などに搭載されている飛行機のこと