60周年

平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談

小学五年生の戦争体験の記憶大溝恵美子さん

  • 空襲
  • 疎開
  • 終戦

戦時中、私は家族5人(祖母、叔母、母、私、弟)で福岡市の中心部に暮らしていた。1945年6月19日、福岡大空襲に遭った。深夜に警報が鳴り、爆弾が降ってきた。近くの山に逃げ着くと、米軍の B29爆撃機が焼夷弾を投下してきた。私たちは六角形の火を吹いて落下する焼夷弾から逃げ回った。見ると、街は火の海だった。
その後、祖母と弟と私は佐賀県鹿島の親戚宅に疎開した。鹿島は有明海からB29が侵入してくる入口のようで、B29が編隊で飛んでいるのを幾度か見た。敵とはいえ、機体が銀色に光り、なんと美しい光景かと思った。小学校は片道一里※ほどあり、下校時に B29の機銃掃射を受けたが、道路脇の積み藁の中に逃げ込み助かった。母たちが「家族が離ればなれで死ぬのは嫌だ」と言い、自家に戻ることになった。
駅で列車を待っていた時、小学5年生だった私の握り拳ぐらいの青い光が遠くに見えた。8月9日、原爆が長崎に投下された瞬間だった。駅のラジオから「ただいま長崎に風船爆弾が投下された」と放送されたことを記憶している。駅に着いた列車は長崎付近を通ってきたのだろうか、窓ガラスは割れ、ケガ人がいて、それは見るに堪えなかった。8月15日には玉音放送を自宅で聞き、母たちが泣いていた。

よくぞ命があったものだと、今も8月が来ると思い出します。このような悲惨な戦争が二度とあってはいけません。全世界が平和であることを願っています。

※一里・・・4km弱