60周年

平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談

「辛抱」を強いられる戦中戦後の少年時代井上睦弘さん

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当時小学6年生の1941年12月8日、太平洋戦争が始まり、食料をはじめとして全てが配給制となり、毎日がひもじい思いでした。芋づるがごちそうで、お腹いっぱい白いご飯を食べるのが夢でした。運動靴も順番制でなかなか私には回ってこず、冬の凍てついた運動場をべそをかきながら素足で走っていました。それでも標語「欲しがりません勝つまでは」で辛抱させられました。
戦況が厳しくなってきて、2歳下の妹も丹後の伊根町へ集団疎開させられました。すまし汁を作るのに塩がないため、海の水を塩がわりにするなど、食事はまずいものでした。夜、布団の中で「母ちゃん」と泣く子がいてつらかったと、妹は手紙に書いていました。校名も○○小学校ではなく、○○国民学校でした。
高等科(現在の中学校)に進むと、空腹でも軍事訓練の毎日で、わら人形を敵に見立てて竹やりで突く訓練でした。敵国語である英語の授業はなく、そのうちクラス全員が強制的に「少年兵」を志願させられ、体の弱い子は本当に気の毒でした。
試験官の前で四つんばいになって肛門を見せ、恥ずかしい思いでした(後で聞くと痔の検査とのこと)。不幸にも第一次試験に合格し、第二次試験で舞鶴に行く予定でしたが、幸いにも終戦になり、命拾いしました。もし戦争が延びていたらどうなっていたことかと思います。でもその時代の少年たちは「七つボタンは桜にいかり」と予科練にみんな憧れていました。
終戦後は教科書もなく、先生の得意なそろばんの練習に明け暮れ、何の夢も希望もありませんでした。食糧難は続き、子どもだけの集団で食料の買い出しに三重県の「亀山」へ何度も行きました。切符も距離制で直通は買えず、「柘植駅」で途中下車し、待合室で新聞を敷いてごろ寝で一夜を過ごしました。夜中に置き引きを目撃したこともありました。
訪問先の農家のおばちゃんに「お腹すいたやろ」と庭に干してあった芋するめをいただき、涙が出るほどうれしかったこともあります。何よりのごちそうでした。
やっとの思いでサツマイモを買っても、亀山駅に警察官がいて、闇で買ったものとして没収され、泣く泣く帰ったこともあります。
このようなひもじい思いはもう絶対いやですし、戦争には絶対反対です。こんなことが二度とやってこないように、平和憲法は絶対に守りましょう。