慌ただしく疎開一変した生活宮谷勝明さん
- 疎開
- 暮らし
対戦の激化を見越して、子どものいないおじとおばは一足早く北但馬村岡町の集落から、奥深い山あいに入った粟ケ尾に、田畑を町から借り受けて住んでいました。
私の父は京都市内で鍼灸師をしていましたが、大阪市方面で立ち上った黒煙を目の当たりにした翌日、疎開を決意し、慌ただしく母と私、弟と妹を連れて京都駅まで歩いて出ました。
私たち家族は、疎開先の村岡町役場から一軒家をあてがわれました。長い間空き家であったせいか、とても住める状態ではありませんでしたが、その日の夕方になってようやく整理ができました。
私は国民学校5年生に編入したものの、授業はほとんどなく、裏山の雑木林に分け入って原木を抱えて学校のグラウンドに持ち帰り、同じ太さに整理したところでお役御免となりました。