祖父、父から受け継ぐ戦時下の暮らし梅染祐子さん
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昭和2年生まれの父が伏見にある旧制中学に通っていた頃、友達と近くの神社の池の鯉を捕って料理屋で砂糖と交換し、その砂糖を近くの和菓子屋「ようかん」に交換しておやつにしていたそうです。
学校で教師の「赤紙が来たらいや応なし、志願して訓練を受けたら選択肢がある」との話を聞き、父は志願して航空整備兵となり舞鶴へ。家に急に面会の知らせが届き、祖母たちは覚悟して面会に行きましたが会えず、しばらくして父は大津に移りました。
大津では穴を掘って分解した飛行機を埋めていたそうです。食事は部屋ごとに人数を書いた紙を持って当番が受け取りに行きますが、量が少なく、それを見た炊飯係の伍長が「11→14」、「6→8」というように数字に手を加えて量が増えるようにしてくれたそうです。
祖父は清水焼の絵付け職人で、徴用されて大阪に行き、金泥で陶板に線を描く仕事をしていました。そのため疎開できず、帰宅後一人で押し入下に防空壕を掘っていましたが、半分ほど掘った時に終戦になりました。かつては町内単位で家中の畳を上げて掃除する日があり、その時「この穴は…」と話を聞きました。
「空襲に備えて五条通の家を取り壊しに行った時は、戸や障子を取り外し、柱をのこぎりで切り、その上の方にロープを結んで皆で引っ張ると、ドスンと一階が壊れて二階が落ちてきて、すごいもんやった」と言っていました。そこに住んでいた人がどこに行ったのか分からない。そうなる前にと、祖母たちは実家のある石川県の田舎に疎開しました。
実家は馬町の近くにあり、私の小さい頃でも雨漏りすると、「焼夷弾がまだ刺さってんのと違うか」と皆は冗談を言っていました。実際、余った焼夷弾を捨てたのが爆発して大変なことがあったようです。雨漏りしたため屋根に上ると鉄の破片が刺さっていたとのことです。
以上、話の中の人はほとんど亡くなり、真偽のほどはよく分かりませんが、私が聞いた戦争にまつわる話です。