「空襲」が来る恐怖と隣り合わせの国民学校時代湯浅芳子さん
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小学校高学年の頃から内地の空襲が始まり、京都でも警報発令のサイレンが度々鳴りました。学校では警戒警報が出ると家に帰り、空襲警報の時は校舎の廊下脇で目と耳を手で覆い隠して腹ばいになる練習や、登下校時に肩から提げていた非常袋から防空頭巾を取り出してかぶる練習をする日々が続いていました。
何かの記念日には分列行進があり、全校生徒が学年と級ごとにグラウンドに整列し、演台の校長の前を、級長の号令の下に敬礼しながら足並みそろえて行進しました。テレビで他国の軍隊の行進を見るたびに思い出します。炎天下でも行われ、生徒の数人が倒れて養護室へ抱えられて行く姿をうらやましく見送ったほどに辛かったです。
授業ではモールス信号や手旗信号を覚え、音楽では歌より音階の聞き分け(敵味方の爆音を聞き分けるためと戦後に知る)の練習が多く、その試験もありました。亡夫の出身校では、軍歌を教える男性の先生が人気だったそうです。
やがてお弁当も作れない食糧難になって、給食が始まりました。初めの献立はお椀にすり切り1杯のご飯と大根葉のみそ汁。次第に、ご飯は豆入りから雑穀入り、雑炊、白のコッペパン、最後は黒のコッペパンになりました。みそ汁の具はいつも何らかの葉っぱのみ。1度だけ油が浮いて肉が1切れ入っていたことがありましたが、「あれはアヒルの肉やて」と噂が流れ、みんな嫌な顔をしたものです。他にも友人の出身校ではみんなで世話していた兎が供されて、後で知らされた生徒たちがショックを受けたと聞きました。みそ汁もやがてザラメ糖の湯となった頃卒業でしたが、卒業式後に配られた2 個のコッペパンの真っ白な姿が目に焼き付いています。その何日か前の登校の朝、校舎の南方の遠い空がどす黒い色に染まっていたことも忘れられません。あれは大阪大空襲の翌朝だったと後に知りました。
校内では上履きもなくみんなはだしで、登下校は下駄でした。年に1、2度、級ごとに大・中・小それぞれ数足ずつ運動靴の配給がありました。ジャンケンで勝った者からもらえます。私は「小」を欲しがる人が少ないおかげで靴がもらえましたが、「中」は欲しい人が多くてもらえる確率が低く、気の毒でした。
そのうち在校生の集団疎開が始まり、4 年生の弟が参加しました。行き先は北桑田(きたくわだ)の山岳2カ所で4年生から5年生が分宿しました。弟たちが「田舎なら」と半ば期待していた食べ物はなく、交代で面会に来る母親たちが苦労してかき集めたわずかな食品を待ち焦がれる日々だったそうです。当時、母と共に国鉄二条駅へ疎開者の送迎に行きました。出発時は笑顔で窓から手を振り、遠足気分だったのに、終戦後の帰省時には列車から降りて力なく母にしがみつく、痩せこけた弟たちの姿にショックを受けたものです。後に、当時引率同行された先生の「あれ以上戦争が続いていたら、どうなっていたか…」という言葉にうなずくばかりでした。