60周年

平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談平和への想いをつないでいくために 私たちの戦争・被曝体験談

「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」戦争が終わった悲しさと悔しさ辻悦子さん

  • 空襲
  • 終戦

京都で一番に空襲を受けたのは、東山区の馬町(うままち)の一帯でした。次は、上京区西陣の出水(でみず)地域でした。この他、京都府下のたくさんの地域へ爆弾や焼夷弾(しょういだん)が落とされ被害を受けました。

機銃掃射(きじゅうそうしゃ)というのもあり、上空から音もなく、スーッと飛行機が降りてきて、低い所から機関砲で撃ってくるのです。芋畑になっていたグラウンドで私たちが作業していたところ、バリバリと機関砲の玉が耳をかすめました。私たちは逃げることもできず、ただしゃがんでいるだけでした。しばらくして、そーっと頭を上げて、周りの様子を確かめました。幸いにもみんな無事でホッとしました。でも、あの玉の音は忘れられません。

そしてその頃、大学生が学業半ばで学徒出陣として出征していきました。白いタスキ※1をかけ、明治神宮外苑をりりしく行進していた姿は、今も忘れられません。その後しばらくして、中学生以上の生徒にも学徒動員令が次々と下り、私たち師範学校の生徒も、男子部は舞鶴海軍工廠(こうしょう)へ、女子部は国際航空大久保工場へ働きに行くことになりました。この時舞鶴へ動員された男子部の生徒は私たちと同期です。爆弾により11人も亡くなり、とても悲しかったです。他の学校の人もたくさん亡くなりました。この時の動員の歌が『あゝ紅の血は燃ゆる』です。私たちの工場は全寮制だったので、軍歌『勝利の日まで』を歌いながらみんな寮から通いました。初めて入った工場は、空気が悪くてムンムンとして気持ちが悪かったのですが、 それにも慣れ、与えられたそれぞれの仕事を頑張りました。私の仕事はハンマーで鋲(びょう)を打ち込むことでした。気をつけないと親指を打つのです。思い切り親指を打ち、爪はグラグラ、血がボトボト出ましたが、ハンカチで縛り、仕事を続けました。本当に痛かったです。仕事が終わり、『一日の汗をぬぐいて』の歌を歌って帰りました。

ほぼ毎日空襲があり、山へ逃げた日はさすがに疲れました。しばらく休んで夕食です。相変わらず豆かすがいっぱい入ったご飯を我慢して食べました。食糧難の時代でした。白いご飯のおむすびの夢をよく見たのもこの頃でした。全く暖房のない障子1枚の寮の部屋でよく辛抱できたものです。

そして、押し入れの片隅のマッチ箱に名前を書き、毎回切った爪を入れて残しました。※2

やがて敗戦の色が濃くなり始めました。サイパン島、グアム島のアメリカ軍基地からの空襲がますます激しくなり、京都空襲も予感してか、市内の大規模な疎開が行われるようになりました。現在の御池通、五条通、堀川通の50m幅の幹線道路を中心に、強制疎開が行われました。この地区に暮らしていた人は、3日から10日の間に立ち退かなければなりませんでした。この立ち退き、つまり家を壊していくのにも動員生徒は駆り出されました。この強制疎開で家を失った人たちは、どんな気持ちだったでしょうか。学童疎開も行われ、市内で102校、1万人以上の3年生から6年生までの児童が親元を離れ、先生や寮母さんと出発しました。先生も大変だったことでしょう。

忘れられないのは、沖縄から九州へ向かった学童疎開船 対馬丸(つしままる)がアメリカの軍艦に沈められ、700人以上の学童が亡くなったこと、悲しい話です。

ついに昭和20年8月15日、終戦を迎えました。正午に重大放送があるのでみんなラジオを聞くよう連絡があり、わが家にも何人かが集まって聞きました。なんとそれは、玉音(ぎょくおん)放送だったのです。今まで聞いたこともない、天皇自らの放送でした。「日本は戦争に負けた」という意味の内容でした。雑音が多くて聞き取りにくかったのですが、今も私の耳には「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」という言葉が残っています。どうしても負けたと信じられず、私はずいぶん取り乱したようです。周りの者になだめられ、せっかくの楽しかるべき外出許可の日は悲し過ぎて、しょぼしょぼと寮に帰りました。誰の顔もみんなポカンとして、力が抜けた感じでした。

戦前から戦中、そして戦後の激動の昭和を生きてきた私たちは、楽しかるべき青春時代は戦争のため、ありませんでした。現在の若者は幸せです。修学旅行生を見るにつけ、修学旅行も知らない私たちは寂しいです。楽しい時間を持ちたかったです。今、新聞やテレビで世界のいろいろな報道を見たり聞いたりすると、なぜもっと平和の尊さが分からないのか、お互い仲良くできないのかと思います。日本の平和憲法うんぬんも気になるところですが、世界の平和を心より念じる私です。

※1 夜襲の際、味方を識別するためにつけていた白い布
※2 当時は、空襲などで亡くなったら遺体や骨は回収されない可能性が高いため、多くの人が遺品として爪を残していました