戦争中の僕ら、少国民井上保三さん
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「勝ってくるぞと勇ましく」と、出征兵士を京都駅まで送り出したのは、国民学校3年の時。京都市内でも爆弾が数発落とされ、急きょ学校単位で集団疎開に行くことになり、兄貴と2人で綾部の山奥へ。我ら、少国民でも天皇陛下のために死ぬことを教えられ、学校では奉安殿に最敬礼をし、修身の教育を受けました。村では、地元の子どもたちとなじめず、「都会者が米を食べに来た」となじられ、勉強は二の次でした。両親から別れ、約1年。寂しい、辛い生活でした。
一番困ったことは、食料事情が悪く、空腹の毎日だったことです。弁当は約半分、昼までに隠れて全部食べてしまう状態です。代わりに紅葉の新芽やツツジの花や道端の草木、何でも。イナゴの生まで食べ、飢えをしのぎました。戦争で兵隊さんも大変だったでしょうが、我々、少国民も大変。それなりに苦労しました。
中でも、今も忘れない怖い思いは、アメリカ軍の戦闘機により、学校帰りの学童の列に機銃掃射を受けたことです。1人が倒れ、私は田んぼに飛び込み、難を逃れました。この経験は一生忘れず、時折思い出します。
終戦になっても、なかなか家に帰れず、秋まで待たされました。窓のない汽車に乗り、ようやく帰った京都駅で外国人を見て、あまりの体の大きさにびっくりしました。終戦後は、国民学校から小学校・中学校に変わり、民主主義の世に変わりました。頭の中が混乱し、若くして兵役に蒙古(モンゴル)開拓団に行った若者たちに尊敬の念を持ちながら、我々少国民もがんばりました。私の年までは、他にも記憶はたくさんあります。