亀岡への疎開と食料不足土屋榮さん
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私の小学校入学は1945年、終戦の年です。戦争が始まったので疎開のため、京都市内から亀岡に引っ越しました。京都市内の家は日当たりが悪く、「亀岡に移ってからは、子どもたちは風邪を引かなくなった」と母は言っておりました。
戦争の思い出として、前後するかもしれませんが、書いてみます。
近くの亀岡城は宗教団体のものだったのですが、不敬罪で関係者の方は逮捕されていて、私たちは城跡を畑にして野菜をつくらせてもらって、食料がない中、ずいぶん助かったわけです。母の苦労は大変なもので、食料のため畑を耕し、燃料がないので、山奥へ細い木々を取りに行き…。ほとんど栄養失調の体で、5人の子どもと祖父2人を食べさせてくれたのです。
私の場合も、物心ついたころは食べるものは不足していました。パンとか栗まんじゅうの絵は見たものの、実際は本物を見たこともなく、絵を見て想像して過ごしておりました。京都市内のデパートにも何も売っていなくて、母が「何もなかったけれど、これだけ売っていた」と、何かの動物の血液を固めた錠剤を買ってきました。
父が静岡の三島に駐屯していて、私たちも母と弟、私の3人で会いに行きました。が、母は弟を背負ったまま、立って京都駅から静岡まで行きました。食料がない中、トウモロコシの粉と、干し飯(何かで余ったお米のご飯を水で洗い、天日で乾かしたもの)を保存できる食料として持って行きました。
食料がなかったことばかり書いていますが、履物、傘、肌着、電球、全てのものがなかったのです。大変な時代でした。