大阪大空襲の記憶富永敬子さん
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- 疎開
- 戦後
昭和20年3月13日、私が幼稚園から小学校に上がる年の春、大阪大空襲がありました。
私は大阪市・浪速区の商家の三女として生まれ、弟は4つ違いなので、母がおんぶしていました。当時、サイレンと焼夷弾の「ピュー」という落下音が響き、家々が延焼する中、母は私たち子どものリュックにお弁当を入れながら「これをなくしたらあんたの食事はないよ!」と言い、私は幼児期に自分で自分を守ることを教えられました。
やがて空襲警報が解除されました。御堂筋の高島屋の前で、砂ぼこりの中、お弁当をあけると砂ぼこりとご飯が混ざり、ジャリジャリとした記憶があります。
一家は親せきのいる今里まで歩いていきました。前日に、1つ上の姉と1番上の姉は、別の親せきのいる塚口へ疎開したばかりでした(当時の尼崎市塚口町は畑があって、のんびりとしたところでした)。昭和20年8月、終戦後、やっと親の迎えで大阪に戻りました。私が3年生になるころにようやく始まった給食は雑穀や粉乳で、当時はとてもまずいと思いました。
二度と戦争のない世の中でありますように願います。