迫撃砲の惨劇尾﨑健一さん
- 出征
フィリピン、ルソン島南部の山中に転進した私の所属する通信隊は、敵の猛攻を受けて壊滅し、生き残った隊員は山奥へ四散した。階級制度も崩壊し、約7カ月間、組織のない敗残兵になり徘徊した(1945年3月~9月)。食料は皆無。雑草を食った。味はない。兵士たちは骨皮に痩せ、やっと歩いていた。敵の攻撃は空爆、迫撃砲爆、ゲリラである。生きるために敵の攻撃から逃げながら、食える雑草を探した。ヘビ、カエル、トカゲ、何でも食った。
生き残った兵士30人ほどが相談し、小屋を建て、食える雑草を植えて自活生活をしようと合議した。そして形ばかりの小屋を3軒建て、分散して住んだ。空爆は激しく、低空を敵の観測機が絶えず旋回していた。動く人間、音、火煙などを探知して攻撃するのである。雑草でも煮炊きをする。その火煙には細心の注意が必要である。
ところがある深夜、迫撃砲の猛爆を受けた。間断なく30分ほど続いた。私は必死に山上に逃げた。攻撃が終わって戻ると、生存者は私の他に1人、重傷者1人、残りの者は全員が即死。小屋は破壊され、樹木は倒れ、兵士の死体が足の踏み場もなく散乱していた。大地は血に染まり、肉体はちぎれ、内臓は露出して阿鼻叫喚、地獄の様相だった。30人ほどの命が奪われた。二目と見られぬ無惨な地獄の光景に体が震えた。
その中には同期の親しい戦友が2人いた。1人はまだ息があったがあごを飛ばされており、抱きかかえた私に気付いた彼は、ろれつの回らぬ声で私の名を連呼しながら息絶えた。
動けない重傷者が1人いたが、私自身が生きるためにやむを得ず置き去りにしてそこを離れた。残された彼は動けない。食う物はない。散乱する死体の異臭、誰もいない山奥に1人。その後どうなったかは明白であり、書くに忍びない。断腸の思いで置き去りにした。仕方がなかったと自己弁護したものの罪悪感は強く残り、今でも罪の意識に懊悩(おうのう)している。
私は肩と背中に被弾したが軽症で、生き残れたことは奇跡である。小屋は破壊され、樹木はなぎ倒され、荒れ果てた死体累々の地獄の森に一変した。神、仏はいないのか!と天を仰いで恨んだ。無常観に襲われて涙が出た。
間一髪私は助かったが、運がなければ彼らと運命を共にしたに違いない。あの奥深い山中で、彼らの屍(しかばね)は万斛(ばんこく)の恨みを持って今も散乱しているに違いない。そして無念の最期を遂げた彼らの魂は、いつまでも成仏できずにジャングルの中をさまよい続けているのではないだろうか。
一瞬にして幽界に旅立った兵士たち、もうそこは生命の存在を超越した虚無の世界になった。
彼らの遺体を残し、私だけが生き延びて立ち去ることに懺悔(ざんげ)と、後ろ髪を引かれる沈鬱(ちんうつ)、悲愴な気持ちでそこを離れた(私は志願した少年通信兵で、その時17歳だった)。