父の軍隊履歴書より向井哲夫さん
- 伝聞
- 出征
父は明治42年生まれ。以下の記述は主に83歳で亡くなるまで父が大切にしていた軍隊履歴書による。
昭和18年8月、軍隊に召集。東京に住んでいたが、出身地の甲府で召集される。下関から当時日本の植民地であった朝鮮の釜山(プサン)に渡る。中国の山海関(さんかいかん)を通過して、中国の山東省臨沂(さんとうしょうりんぎ)に行く。そこから上海に移動(恐らく、長く貨物列車にのせられたのであろう)。南方派遣のため、上海の呉淞(ごしょう)港からインド洋のアンダマン諸島に船で行き、ポートブレアに上陸。ともに出港した別の船は潜水艦によって撃沈されたという。時に英米軍の機銃掃射を受ける。アメーバ性赤痢にかかり、「入院」。戦友は山蛭の中、地下に葬られたものもいるという。陸軍一等兵であった。終戦。インドネシアのレンパン島から名古屋港まで帰ってきて、復員※1完了。
一方、大正5年生まれの母は、三鷹から父の故郷の甲府に疎開。終戦間際の昭和20年7月6日に大空襲を受ける。当時、4歳の姉と2歳の兄の2人の子どもを連れて、焼夷弾の雨の中、甲府の愛宕山に逃げたという。財産はすっかりなくなる。終戦。1947年、東京で焼けなかった三鷹の家で私が生まれる。団塊の世代がかくて誕生する。
私は30代の半ばから、父が滞在した中国の上海や山東省などを度々旅行したが、泰山(たいざん)や済南市(さいなんし)の大明湖(だいめいこ)などは、美しく平和そのものであった。父が駐屯した臨沂にも近い、臨淄(りんし)にも行った。
それにしても文学青年であった父は、何を考えながら従軍していたのだろうか。戦後、俳人である中村草田男(なかむらくさたお)の門下となったが、「星月夜よく哨兵(しょうへい)※2としてたちし」などの句がある。
※1 召集したものの軍務を解くこと、その結果民間に戻ること
※2 見張りの兵士