母と最期の夏みかん京都府京都市西京区 大谷裕子さん
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私は京都の西、山科で生まれ、出身校は鏡山小学校です。学校の北には、JRと京津国道疎水の流れる山を背景に、天地天皇陵があり、毎月10日は全校生徒の参拝する日になっていました。時を定められた由来の日時計は、今も残されています。
4年生の12月8日、いつもは校庭で行われる朝礼が、その日は全員講堂に集合。まず目に入ったのは、正面に掲げられた海軍士官の写真。そして校長先生から告げられたのは「真珠湾攻撃」。日本が米国と戦争状態になったことでした。
昭和18年3月、鏡山小学校を卒業した私は、母の希望で同志社女学校へ入学。セーラー服を着た喜びもつかの間、制服は母の着物で作ったもんぺ姿になりました。当時、両親は地域の委員(当時の方面委員※1)も務めていたので、母は朝鮮の方の部落のお世話なども引き受け、頼りにされていました。しかし、戦況が烈しくなった昭和19年夏ごろより体調を崩し、急きょ京大病院に入院。病名は腎盂炎でしたが、当時母は37歳。死に至る病とは思ってもいませんでした。
年が明けて昭和20年、戦況は激しくなり、医師不測の上に薬の投与もなく、母の腎臓の機能は日に日に衰えていきました。排尿もできない苦しみは、とても言い表し得ません。それでも何か食べさせなくてはと、高粱(コーリャン)※2入りのご飯を弁当箱に詰め、通学前に持参する日々が続きました。6月半ばの日、何も欲しがらなかった母が、「おみかんが食べたい」と言ったのでビックリ!当時、物資は配給のみだったので、とても無理とは思いましたが、近所の方にお願いしたところ、1個の夏みかんをさっそく届けてくださいました。聞けば、警察にお勤めの方が見つけてくださったとのこと。枕もとの夏みかんを見た時の何とも言えないうれしそうな母の顔は、今も忘れることができません。ほんの少しの実を口に含ませただけで、とても満足そうな表情になり、こと切れました。
今はどこにでもある夏みかん。でも、それが叶わなかった昭和の時代。1個の夏みかんを探し求めてくださった人の心の温かさ。今も夏みかんの時期になるとよみがえる、私の悲しくて大事な思い出です。
※1 方面委員・・・地域の救済行政を補完する名誉職委員で、第二次世界大戦後の民生委員の前身
※2 高粱・・・モロコシの中国名。モロコシは栄養価が非常に高い穀物の一つで、祝い事などで使われることもある